沼津

愛され守り続けられてきた 沼津 千本松原の歴史

沼津 千本松原

ここ沼津の「千本松原」は松林から富士山も望め東海随一の景勝地といわれ、昔から歌人や文豪作家から愛されてきました。

今では、松林の美しい景観が続いていますが、かつてはこの松林が伐採されて荒れ果てる危機がありました。

その度に、この松原を愛する人たちによって守られてきました。

長い時間をかけ、大切にされ続けてきた千本松原の歴史をご紹介します。

 

北条VS武田 駿河湾海戦の戦場下で伐採

時は乱世の戦国時代。現在の沼津市が位置する場所は駿河国(するがのくに)と呼ばれ、今川氏が支配していました。

永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、

その8年後には今川氏真が武田信玄、松平家康(後の徳川家康)に攻められ名家今川氏は没落していきます。

今川氏の滅亡後、駿河国に攻め入ったのが武田氏でした。

その武田氏に対抗するために、北条氏が長浜城を築いて水軍を集結させました。

武田氏、北条氏の両軍とも強力な水軍を持っていたのです。

両水軍が駿河湾沖で激突してのが、天正八年(1580)のが駿河湾海戦です。

 

そして、合戦にあたり千本浜に上陸した武田軍勢は、松林が邪魔でことごとく切り倒してしまったのです。

両軍は激しい戦闘を繰り返し、一進一退の攻防を続けます。

が、結局、この駿河湾海戦では武田軍、北条軍のどちらが勝利しのか、はっきり分かっていません。

 

増誉上人の発心 松原を復活へ

沼津 増誉上人

駿河湾海戦により千本浜の松は伐採され、海からの潮風に晒され農作物が育たず、この地の人々は大変苦しんでいました。

そんな中、この荒廃した千本浜の松原を復活させたのが、

増誉上人となります。

修行の旅としていた増誉上人は、この地に訪れ荒廃した環境に困っている人々を目の当たりにし、松原を元の姿に戻そうと発心します。

しかし、海からの潮風も強く、松苗はなかなか根付きませんでした。

それでも増誉上人は、一本一本の松苗を真心を込めて植え続けていくのです。

そんな増誉上人のひたむきは行動を見て、諦めムードだった地元の人々も共に苗植えに協力していきます。

そうして、五年の歳月をかけて見事に松原を再生へと導いたのでした。

沼津 増誉上人

この増誉上人にまつわる有名なエピソードとして、

増誉上人は松苗を一本一本植えるごとに、

「なむあみだ、なむあみだ」

と阿弥陀経を唱えながら松苗を植えていきました。

増誉上人は、仏教の浄土宗総本山である知恩院にて学んだあとに旅に出たのです。

そして、増誉上人が基となった乗運寺は知恩院の末寺でもあるのです。

因みに、「乗運」という名前は増誉上人のお兄さんの名前から付けられました。

 

若山牧水 伐採計画に断固反対

大正時代の歌人である若山牧水。生まれは宮崎県日向市東郷町。

酒と旅を愛した牧水は、全国を飛び回り、その土地土地の景観を歌に綴り多くの作品を生み出しました。

そんな牧水は、沼津の千本松原の自然美あふれる景観に魅せられ、大正9年に一家で沼津に移住します。

大正15に松林の伐採計画が持ち上がったとき、牧水は猛烈に反対運動をおこしました。新聞に文書を載せ、得意でない演説も行い松原を守りぬきました。

その後、牧水は急性胃炎と肝硬変を発病し、若くして43歳でこの世を去ります。

牧水の墓は乗運寺に建てられ、今でも沼津の地で眠っています。

 

近代化に伴い伐採が進む

昭和に入ると、大東亜戦争中には燃料に使うため伐採され、

また戦後になると建築資材に使うため大きな松が伐採され松原は荒れてしまいます。

しかし、その後は沼津市の人たちが努力し毎年整備が進み、

現在の美しい松原が保たれています。

 

人気観光スポットへ

現在は公園も整備され、県内外から多くの観光客が訪れる人気スポットとなっています。

公園内には、この地を愛した文人たちの記念碑が数多くあります。

無料の駐車場も整っていますので、安心して車で来られます。

すぐ近くの駿河湾の潮の香りと、松の香りを感じならの散策は格別です。

先人たちが尽力して守り通した千本松原を我々の世代でも大切にし損なうことなしに未来の世代で手渡していきたいですね。

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