沼津市街の中心に位置する中央公園。
この地は、明治6年に廃城となった沼津城の本丸跡となっています。
城としての面影は、現在、ほとんど見ることは出来ず、僅かに遺構として残っているのは石垣があげられます。
沼津市明治史料館には、沼津城の復元模型が展示されていて、当時の城地の様子が伺えます。
また、沼津城は別名観潮城ともいわれ、富士を背後に狩野川から千本松原ごしに駿河湾の絶景を望める城でもありました。
沼津城のあゆみ
・武田勝頼が北条氏に対抗するために築城した城が三枚橋城
・三枚橋城が廃城後、江戸時代に大久保忠佐が城主となり沼津城となる
・明治では一時的に兵学校として利用される
・現在の中央公園
三枚橋城(戦国時代)
戦国期の沼津は、今川氏が支配する駿河国の領土内に位置します。この頃今川氏は、近隣の大名である甲斐国の武田氏、相模国の北条氏との三国で同盟関係を結んでいました。同盟を結ぶことにより、西の織田氏との戦いに専念しようとしたのです。
桶狭間の戦いで今川義元が倒れると、それを機にと武田氏と北条氏が攻め入りました。
三枚橋城は、天正7年(1579年)に武田勝頼によって築城されました。
何故この場所にお城を建てたかというと、すぐ近くにいる北条氏に対抗するためでした。
武田氏の築城を知った北条氏は、長浜城を拠点にし水軍を集結させました。
それから、両軍は駿河湾沖で幾度も戦いを繰り広げます。
1582年に武田家が滅亡すると、三枚橋城の城主は徳川家康の家臣・松平忠次に移りました。
江戸幕府が成立すると、大久保忠佐が城主となっていましたが、彼には後継ぎがありませんでした。慶長18年(1613年)に忠佐が死亡すると、三枚橋城は廃城となります。
沼津城(江戸時代)
三枚橋城が廃城になってからは約160年間、沼津に城が無い状態が続きます。
安永6年(1777年)になると、十代将軍徳川家治が、水野忠友に2万石の沼津の領地が与えられのをきっかけに再び城を構えることになりました。
こうして元は三枚橋城であった城跡を利用して構築された城が沼津城となります。
ただ、160年間の間に城跡の回りでは開墾が進んでいて、三枚橋城当時と沼津城の広さをを比べると約半分程までに縮小していたようです。
沼津城の城地と現在の沼津市街の地図を合わせるとこんか感じになります。
城下町としての側面もあった沼津は、江戸時代になると宿場町としても発展していきました。
沼津兵学校(明治時代)
明治になると、城は兵学校の校舎として利用されていきます。
しかし、学校が東京へと移転されると城は廃却され敷地は民間に払い下げられます。
明治22年には東海道線が開通され、街中の交通整備も進み南北に道路が敷かれていきました。その後は、2回の大火に遭い、また城の堀は埋められ、城としての面影はほとんど消失していきました。
中央公園(現在)
現在、沼津のまちの中心に位置し市民のオアシス的は公園として親しまれています。
年間を通して様々なイベントもここで催されています。
街中に垣間見る面影
公園の脇の階段を降りると、城に使われいていた石垣が見れます。
静岡銀行前に展示されている、石垣の復元されたモニュメント。ビル工事の開発中に地下から発見された石垣が使用されています。
コンクリートで石はつなぎ合わせられています。
こちらも石垣のモニュメント。リバーサイドホテルの玄関前になります。
地下から発掘された時の石垣の様子。
沼津城で使用されたいた瓦です。瓦自体は現愛知県の三河国大浜の瓦師によって焼かれ作られていました。
復元模型と同様、こちらも沼津市明治史料館で展示されています。
中央公園前の通り。
現代になり、都市開発も進み静岡県東部の中核都市として大きな発展を遂げた沼津です。
その流れで、過去の遺構はほとんど見られなくなってしまったわけですが、僅かに残る面影に歴史に思いを馳せ古きよき沼津を再発見していきたいですね。