駿河には過ぎたるものが二つあり
富士のお山に原の白隠
沼津市原の名僧、白隠禅師。
臨済宗中興の祖とたたえられ、白隠自身が描いた禅画は海外からも注目されています。
白隠の生涯
白隠は貞享2年(1685年)12月25日、原の長沢家の3男坊として生まれました。
長沢家は名字帯刀を許された家柄でもあり、強い武士になってほしいという願いもあり『岩次郎』と名付けられました。
幼少の頃、母に檀那寺の昌原寺に連れていかれ日厳上人から地獄の話を聞かされた岩次郎は、
地獄にたいしてとても強い恐怖心を覚えます。
岩次郎少年は地獄の苦しみから逃れるため日々精進に励みます。
岩次郎13歳の頃、愛鷹山麓の八畳石に通い続け座禅を組み修行をしていました。
両親は岩次郎には武士になってほしいという願いがありましたが、岩次郎自身は仏門の道に進み僧侶になりたいという固い決意を持っていました。
そして、15歳の時、松蔭寺の単嶺和尚から出家得度を得て、名前を慧鶴と改めました。
大聖寺での修行を経て、全国各地を行脚し研鑽を深めていきました。
24歳の時、慧鶴は越後高田の英巌寺にて御霊屋にこもり座禅を続けていました。
飲まない、食わない、眠らない、……死と隣り合わせのギリギリの状態での座禅へ経て、ついに慧鶴は悟りを得ます。
その悟りを開くきっかけになったのが、遠くから聞こえる寺の鐘の音、という事で禅は奥が深いんですね。
しかし、慧鶴、この悟りを得たことにとても浮かれてしまいます。
慧鶴「三百年来わしのような痛快な悟りを得た者はなかろう!ハッハッハ!」
と、慢心しきっている慧鶴でしたが、次の修行の場である正受老人のもとへ向かいます。
この正受老人が慧鶴にとって重要な師匠とも言われ、指導もかなり厳しいものでした。
鼻高々となっている慧鶴にたいし、「あなぐら禅坊主!どぶねずみ!」と罵り鉄拳でボッコボコに叩きのめしたのです。
負けん気の慧鶴も正受老人に果敢に禅問答を挑むが、まったく歯が立ちませんでした。そして、日々罵倒される日が続くのです。
さずがの慧鶴も心が折れそうになりました。そんなある日のこと、雨がふる中托鉢をしているとき老婆に竹箒でぶん殴られ気絶してしまいます。
その刹那、正受老人から受けていた難解な問答への答えが閃き、より深い悟りを体得したのです。寺に戻り晴れ晴れとした姿の慧鶴を正受老人は慈愛溢れる笑顔で迎えてくれました。
そして、33歳の時に原の松蔭寺に戻り住職となり、さらに修行を続け42歳の時に、こおろぎの声を聴いて大悟徹底したのです。
それ以来、慈悲の心を持って全国から来た修行者を指導するとともに、各地に赴いたりして教えを説いていきました。
明和5年(1768年)12月11日、84歳で他界するまで、禅僧として献身の道を歩み続けたのでした。
白隠ゆかりの寺 松蔭寺
白隠宗の大本山で、白隠が出家し、のちに住職を務めた松蔭寺です。
白隠の生誕地である『産湯の井戸』
本堂の裏側から見える富士山
すぐ近くの踏切にはしっかり『白隠』の名の踏切が
白隠道
全国から松蔭寺に集まった修行僧が、通ったと伝えられている『白隠道(はくいんみち)』と呼ばれる道が今も残っています。
次回は駿河湾を紹介!
ありがとう!白隠禅師!
白隠道を通る時は自然と厳かな気持ちになりました。
また、毎年4月29日では『寺宝虫干し』として白隠禅画が展示されるので必見です!
さて、次回は日本一の深い湾、駿河湾を紹介していきます!
そわか~