この一見変わった形のオブジェクトは、沼津の千本浜公園内にある「角田竹冷(つのだちくれい)」の碑です。
ここ千本浜公園には、井上靖、若山牧水などの文学碑が数多くあるわけですが、
この角田竹冷の碑が沼津で最初に建てられた碑となっています。
大正9年(1920年)に、沼津初の文学碑として竹冷の門人たちによって建てられ、
100年以上経過しているわけです。
角田竹冷の生い立ち
竹冷の本名は真平(しんぺい)といい、安政3年(1856年)に現在に富士市、富士郡加島村に生まれました。
少年時代には、沼津の地で働きながら苦学されていたということで、ここ沼津がゆかりの地となっています。
竹冷は16歳で、上京し法律を学び、24歳のときに弁護士の資格を得ました。
さらに、35歳になると改進党という政党から立候補して、
鳩山一郎の父である鳩山和夫を破って衆議院議員に当選しました。
その後は、区会議長、府会議長、東京株式取引理事長を歴任し、政治家として実業家として活躍していきました。
俳人としての角田竹冷
竹冷は、明治24年頃から俳句を発表しはじめ、明治28年には尾崎紅葉、巖谷小波、戸川残花ら俳句仲間と共に
秋声会の一員となり、
翌年29年には雑誌『秋の声』にて俳句を発表し、いち早く近代俳句の先駆者になりました。
また、同じ時代に活躍していた正岡子規とも交流があり、子規が若くして35歳でこの世を去ったとき、
哀悼の句をたむけています。
独特な形の碑
さて、この独特な形をしている碑ですが、
これは、竹冷が生前愛用していた顎杖をかたどって作られたのです。
顎杖とは、座って瞑想するときに顎をのせる板のことです。
真ん中あたりに空いている穴は座っている時に手を入れて抑えるために空けられています。
実物の大きさは、50cmほどですので、足元から膝ぐらいの大きさですね。
そして、碑には竹冷が亡くなる前日にうたった句が刻まれています。100年以上も経過しているので識別も大変です。
刻まれている句は
「時は弥生 瓢枕に 鼾かな
(ときはやよい ひさごまくらに いびきかな)」
角田竹冷は、政治家、実業家、そして俳人としても活躍し、
大正8年3月20日に御年63歳でその生涯を閉じました。
↓↓こちらも合わせて読んでほしい千本松原の歴史↓↓